また一人になりました。
別れた彼とは旅行に行ったり、背伸びして豪華な食事に行ったりもしたけど、思い出すのはあの人が靴べらを使っていた日のことです。
うちに来るようになってまだ間もないその日、彼は「帰るからね」と言いながらポケットから靴べらを出しました。
「ああ、この人は靴べらを使う人なんだ」と思ってうちにも備えるようにしたら、次からは勝手に靴箱を開けてうちのを使うようになって、それがとてもうれしかった。
あの日、彼が靴べらを使ってた時、ジャケットから見えたシャツの色がすごくきれいでした。
いま、玄関でひとり靴を履くたびに、あの袖の色がよみがえって辛いです。
もっと昔に付き合っていた人では、彼が握っていた傘のハンドルを思い出します。
あの日、どこへ出かけたのだったか、車を下りる時に雨が降っていました。
先に外に出たはずの彼を目で探すと、その人は駐車場に咲いたコスモスを眺めていて、私に気づくと傘の中でニコッと笑いました。
うわコスモスすごい咲いてるね、と言ったのは覚えてるけど、いま目に浮かぶのは花ではなく、彼のお気に入りだった傘のハンドルと、それを握っていた彼の手です。
死ぬ間際には、あんがいそういう普通の日を思い出す気がする。
年齢的にも私の性格的にも、靴べらの彼が最後の恋になりそうです。
一生独身かもしれないけど、最期にあの美しいシャツの袖と可愛い傘を思い出せるなら、私の人生それなりに楽しかったと言えるかな。
・・・いややっぱり、それはただの強がりですね。
はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」